2012年9月16日日曜日

いい加減、でも必死

lento house物件を探し回って、暇さえあれば、ホーチミン市内をタンと走り回っていた。
最初は私のバイクで二人乗りをしていたが、中古のバイク1台を買い与え使ってもらった。
タンはホーチミン市内何処でも宿泊できる、彼の顔立ちが良いと女性にモテルのは、父親譲りと云うのは説明したが、口説き方のセリフが、恋愛ドラマのそのままである。

「君の瞳は、今夜の星空の様にキラキラと輝いて、とても美しいよ」等初めて出会った女子にも話してしまう。女子は、コロッと彼の虜になり、夢中になって尽くす。。恐るべき(;゚Д゚)!
こんなことがあった
市内ホテルのカフェで、昼食後のコーヒーを飲んでいた時、ガードマンを引き連れて気品のある女性がコーヒーかジュースを飲んでいた、タンが彼女と目を合わせた時に・ニコッ・と微笑むと彼女も
ニコッ・。。数分して彼女のボディーガードらしき男が、タンを呼びに来た。
30分位タンは彼女と楽しそうに、談笑して戻ってきたので「知っている人か?」と聞くと「初めて会った、ハノイ(中部)の政府高官の娘だった」と言っていたが、私達はそのままタンの実家クチに帰り
近くの、路上カフェでくつろいでいたら、私の携帯にその彼女から電話が入り、タンを出してくれと、
タンは私の携帯番号を教えたらしい。。。どうしたのかと聞くと、これから中部地方からこちらに来ると言っている???車で飛ばしても3時間以上は掛かるのに、これから??

11時電話もならないので、例のごとく冗談だろうと思い帰ろうとしたら、ヌーッと大柄なガードマンが現れ。。????来た(;゚Д゚)!

1時間近くまたもや、二人は談笑している。私は大柄なガードマンとムスッとした顔で煙草をプカプカふかしながら、コーヒーを飲んでいた。
後で聞いたが、ガードマン兼ドライバーも仕事とは云えお嬢様のわがままで、またサイゴンに戻ることになってかなり、憤慨していたとのこと。

「で、どうしたの?」「彼女は僕のことを忘れられなくなって、付き合いたいそして結婚したいと、言っている」???
「どう答えたの」「君は、とても魅力的だ、髪の毛も綺麗で美しい。。でも僕は結婚出来ない。ビジネスマンになってお金を儲ける勉強がしたい」と話していたらしい。

彼女は、半べそをかいて、とぼとぼと帰っていったが、私達二人をガードマンの怖~い視線が追っていた。大丈夫だったが。。
日本人Y・A君と警官や強盗に拳銃を突きつけられて、危ない経験もしたことがある。

此の様に、ベトナムだけではなく、発展途上国のアジアの民族はピュアーで生きる、楽しむ為に飾らずに一生懸命である。

50円・100円のことで、喧嘩になり、人殺しになったり、交通事故で外国人が人を跳ねて死なしてしまった時、$6000で解決させた、浮気をした亭主の大事なところを夜中バッサリ切り落とす、アベ貞事件の様な事は日常茶飯事である。

嘗ての日本もそうであったが、国の発展と共に物、金中心に生きていかなければならない社会に成ってしまった。それも限界に来た時期に、震災、原発、政治不信で反省して、賢くなり再出発があるのだろう。人間は、くどくど他人様に言われても気付くことが少ない。経験して初めて気がつくしかないのだろう。

私の旧友でT・Kさんと云う青年が居る。彼は、小規模の店舗を次から次と出店させている(業種は多業種)それなりの苦労はあるとは思うが、全てに於いて成功している様に視える。大きく儲かってはいないでも、赤字続きではない。そこそこ儲かり、生活ができて従業員が楽しく仕事ができればそれで良しとしているらしい。彼は、金儲けでなく、時代を観て感性で生きている人だろう。
私が知り合った当初の印象も、男前と言うより、ハンサム、格好良い青年で、子供心を常に持ち合わせているpureな青年である。多分幼少時期、親の躾が良く出来ていたのであろう。環境も大いに影響はある。

成功者の素質で大きく影響するのが女性の力、応援でモテル要素。努力や忍耐も必要だが。。
記載している主人公タンも現在はこの時期出店8店舗目、産業廃棄業好成績。
二人ともハンサム、女子にモテル、純情、素直が共通している。
私には全てに於いて。。。。。無い、、(;´д`)トホホ…



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2012年9月15日土曜日

展 開

牛を飼っての搾乳業は半年程続いただろうか、なかなか満足の行くような利益は得られない現実に、多少の焦りもあり、改善策を練っていた。

ベトナム自国民であれば、$50もあれば一箇月生活はできるが、私は外国人であるので全てに於いて、外国人料金なる金額を請求されるのと、日本人仲間で(殆どが留学を名目に事業進出の為市場調査に来ている若者)遊びや食事で$1000は使ってしまう。

相変わらず出張パーマ・カットをやっていた御陰で、金銭的には維持できていたが、日本より持参してきた開業資金を切り崩している。
何処に行くのにも、タンを連れていくのでそれなりの出費も嵩むが、行政機関や商取引時には彼が役に立ってくれる、タンも外国人と知り合わなければ、行けない施設やレストラン、ホテル等に出入りすることで、同胞の仲間より自分は格上になった気分で、年上やそれなりの地位にある人とも、尻込みせず、惜しげなく意見を言っていく。。これは後々彼の人生に大きく役立っていく。
この当時のベトナムは、身なりの汚ない人や、現地庶民は差別意識があった。

タンと貸家や貸店舗のオーナーに、家賃、詳細を聞いて回る際、
このように{数年後は外国企業がこれから進出してきたり、駐在員がアパートメントを借りに来るだろう}その仲介をしてはどうか。当時ベトナムは日本のような取引主任等の資格はなくても仲介を専業できた。私は、日本で不動産の経験もあるので、此処ベトナムでの仲介業を(紹介屋・口利き屋)タンとやる計画を立て、空いている物件のグレード、家賃、オーナーの所在、諸条件をリスト化して作った。

現地の色々な人達と知り合いになり、彼等の過去、現在、未来の話を聞けば聴くほど、このホーチミンの人達は北に負けたが、経済で成り立ってやると云う、夢、意気込みを感じた。
だから我々外国人が、タンソンニャット空港を降りて、一歩足を踏み入れて圧倒される、バイクの爆音と数の多さ、その活気だろう

悲しいかな、今ではヘルメット着用になるわ、車が多くなるわ、コンビニは出来るわと日本と変わらなくなってきた。

ベトナムはまだまだ伸びる。でもベタベタの社会、経済が面白い。出来すぎた都市は経済も人も魅力を失くなっていく。その理由は少しずつ解ってくるでしょう。

これから面白い国は、日本企業や個人事業家が進出して行く、カンボジア、ラオス、ミャンマーだろう。

2012年9月11日火曜日

タンの兄妹は、タンを長男として妹(ロン)弟3人で母親が、養っていた。
ロンは、地元に台湾企業の工場が、進出してきたので勤め始めた、本人は縫製の仕事がしたかったみたいだが、雇口が見付からず工場勤めになった。

運命や人生の流れとはこう云うものだろう、務めていた工場の上司と結婚して、現在は台湾で子供を儲け幸せに暮らしている。経済的にも裕福な暮らしらしい。

次男ツン君は、感性豊かで、音楽、美術と才能があり独特の絵を描く。勉強は苦手みたいだ。。。
ダンディな性格は、一族の血筋なのだろう、女性にモテルし、扱い方も上手い。

三男の弟は、とにかく頭がいい、小学、中学、高校とホーチミンの学力コンクールで常にトップ、人民委員会より数々の賞を受けて、現在は奨学金を受けながら、勉強している。本人は将来、ITのエンジニアに成りたいと言っているが、多分国家に使える仕事に就くだろう。
このような、秀才を人民委員会や共産党が放って措かないはずだ。

末の弟は、音楽の才能がある、作詞、作曲をして歌も唄うが独学なのか、イマイチである。
多少オカマの気がある、私はタンに「彼は才能はあるが、経験がないので、旅をさせろ」と進めたが、実行に移していない。恋愛経験も無いらしい。
心から、良い歌を奏でるのなら、それなりの苦労、苦しみ、悲しみ、寂しさと人生経験することにより、良いものができる。まだ若いので、今無理強いすることもないが。。。

そんなこんなで、面白くも、頼もしくもある家族と、付き合っている私は。。。
搾乳で牛を飼っていたが、収入は殆どなし、その後、不動産の仲介、ネットワークビジネスの種まき、オーストリアより牛肉の輸入、豆乳のデリバリー等々遣って、ラオス、カンボジア、タイ、ネパールとコンサルタント業の仕事を行うことにより、様々な人と逢って、文化、習慣、民族性をまなぶことになる。



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2012年9月7日金曜日

出逢い

タン・ファミーリーと家族同様に、付き合うようになっていつの頃か、、お祖父さんに「日本の人、是非タンの事を面倒を観てくれ、たのむ」と言われて「わかりました」

その後、数年に渡り、私が保証人になり、タンを日本へ招致、日本語学校留学とレールを引き、タンは数多くの日本人実業家、企業社長の皆さんに助けられ、成長していく。このサクセスは時期をみて掲載したい。現在は、ベトナムホーチミンで青年実業家に入るだろう活躍している。

先ずは、当初目的であった、美容室開業だが、先に綴った様に、社会主義国、ドイモイ政策真っただ中、、タンに、政府機関に行って交渉してもらうも、許可は降りてこない。

遊んでいる訳にはいかないので、日本人駐在委員家庭に、出張パーマ、カットをやりながら、少しの手持ちのお金で、タン実家(父方家屋)に牛小屋を建てて、牛を飼うことにした。当時のベトナムは、電気インフラが出来ていないので、冷蔵庫などは使えないため、フレッシュなミルクが飲めない。搾乳して朝一番で売ることを考えたのである。
殺生は好まないので、牛肉の販売はやりたくなかったからである。


  • だが、、、、これから展開していくビジネスは旨く行くぞ!と思いきや、結局失敗に終わるが、楽しませてもらって、私の人生に大きな影響を与えてくれた。感謝している。

日本でこれだけ、ビジネストライをして、失敗してを繰り返すことはできないだろう。規模も小さいが、扱う金額も少額でトライできる。なにより、ベトナム人の色々な人に会える、日本人の色々な人に会える。外国人気質が分かってくる、日本人気質や日本国政府の腹の中が分かってくる。

だが、搾乳の牛は雌だが、$300〜$1000する、タンの父親に多少ボラレタ感はあるが、10頭程買え揃えた、餌はお祖父さんが所有している、広大な土地を利用させてもらい、雪花菜も定期的に与え、より多くの乳が出るようにしてもらったが、なのに、売上ははほとんど上がってこない。

言い訳である、病気になってクスリ代がかかっている。子牛が雄しか生まれない。餌のグラス(草)を刈る職人に給料がかかる。である。
途中判明したが、売上はお父さんの闘鶏博打に注ぎ込まれていたらしい。

そんな父親を持つタンは、5人姉弟の長男、母親一人手で育て上げられた。
父親のようにはなりたくない。なっては駄目と常に母親に聞かされ、心に誓っていたそうだ。

母親の働く後ろ姿を観て、彼は父親代わりや長男としての勤めを、一生懸命やっていた。
クチからサイゴンまで20kmを自転車で、80キロある米俵を毎日送り届けてから学校に行っていたとか。
幸いにも、土地はお祖父さんの御陰で広大な土地を所有して、貸してもいる。
妹や弟達には、とにかく勉強をしっかりやれ!金は俺が稼ぐと言い聞かせていた。
そのせいか、兄に敬意をはらいながら、接してくる。
祖父・父・母・兄に敬意をはらう、忘れていませんか皆さん
この兄妹の行く末、現在は追掲載することにしたい。


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2012年9月4日火曜日

タンの実家 クチ地区

ゲストハウスに、お世話になって1ヶ月位たった頃には
近辺の、商店街、バイクタクシー、シクロの皆さんとも顔なじみなり、毎日を楽しく過ごしていた。

タンに「私の家に遊びに来てください」と誘われたので、ホーチミンから30分位バイクに乗って、クチと云う地区までタンの家にお邪魔することになった。

バイクで走行中周りの景色が、どんどん変わっていく、私が幼児期の頃の景色になっていくのである。「懐かしな」田舎と言えば田舎だが、気持ちが落ち着いてくる。ライスフィールドで米畑一面である。途中椰子の実のジュースを、3000ドン(日本円で25円位)飲んでハンモックで一眠りした。これも気持ちが良かった。

タンの家は、思ったよりしっかりした家で、豚を1頭、鶏は30羽ほど飼っていた、お母さんはライスペーパーを朝から何枚も作つては干しを繰り返している。

私が着くなり、近所から20人〜25人の人達がゴソゴソと集まってきた、何事かとタンに聞くと「全部親戚の人だとか、女性は台所でわさわさと料理作りを始め、男子は机と酒を用意して、アッと云う間にパーティー会場が出来て宴が始まった、外国人を見るのは始めてとのこと。

私もタンを介して、色々と質問していたが、男衆はとにかく酒を飲め。。俺が飲んだらお前も飲み干せと、延々と飲まされた。いつの間にか、意識を失って目が覚めたら、ハンモックの上で寝ていた。
最初は、地元で作ったワインだったが、途中から米酒(40°以上)を飲んでいたらしい。
頭は痛くないし、気持ち悪くもないが、フラフラすると言うより、雲の上を歩いている感じがした。

タンの一族は、お祖父さん98歳元気で、昔はベトコンの勇士でこの地区の長(オサ)だった。クチトンネルはベトナム戦争中、アメリカが手を妬いたところである。
父親は、博打好きで、家の事など考えず遊びほけていた為、タンの母親と離婚している。しかし女にモテルのであろう、妻が他に3人も居ると言う(;゚Д゚)!。。この人は霊感を備えて居るみたいで、異様な素振りをする時がある。私の日本人仲間(ドクトル)曰く、サイババみたいだと。

お祖母さんがまたすごい、目立たない存在であったが、息子がこの時期のベトナム社会主義国の首相(ファン・バン・カイ)であったのには驚かされた。
タンから見れば叔父さんである。そう言えば、タンの親戚は政府の職に就いている人が多いフランス大使館勤務、公安勤務、貿易省勤務等々。北に負けたサイゴンで、このような職に有るということは、タンも相当恵まれた環境なのであろうと思っていたが、そうでもないらしい。 サクセスツアーランド